エリーナさんを侍女に任じてから数日が経ちました。
しかし。
身についた習慣とはなかなか抜けきらないものです。寝坊故の数分の遅刻は当たり前として、姿勢の悪さからマナーの欠落、呼称間違いに加え一定の注意回数を超えると逆切れするなど一向に進歩がみられません。
しっかりとマナー本は熟読しているようなのですが、知識よりも癖が先に出てしまい、いつもわたくしの手直しが入ります。
その現実にエリーナさんももどかしい思いをしていらっしゃるのでしょう。
最近は笑顔を見る機会が減ってしましました。
そしてさらに数日後……。
殿下。殿下宛に手紙が届いてございます
ありがとう。どなた様かしら……?
門の近くでエリーナさんに呼び止められ、自然に手紙を受け取ります。
その手紙は横に3つ折りされたものを更に左右から少し重ねた扉のように折られ、開いてしまわぬよう封蝋で閉じられておりました。
しっかりと封がされたその手紙を折られている順に静かに開き、差出人を確認いたします。そして瞬時に目を疑いました。
ま、まさか……
なんということでしょう……。
ボスコヴィッツ様が、おいでになるそうです……
……?
ボスコヴィッツ様とは、どちら様でございましょうか?
かつてのわたくしの、ナーサリー・ガヴァネス……
礼儀作法の先生ですわ……
ボスコヴィッツ様は、幼き頃の私の子守役を務め、更には読み書き算盤、礼儀作法だけでなく、お裁縫に刺繍、チェンバロのレッスン、果ては騎馬の指南まであらゆる貴族教育を担当して下さっていた女家庭教師でございます。
思い出しました……。
私がこの城に来て間もない頃に、何度かすれ違っていた記憶があります。
先生という事は、殿下にとっては恩師という訳なのですね。
失礼のないように致しませんと……
ええ……。っ!
おいでになる日付は、本日ではございませんか。
ふ、不意を想定して手紙をお出しになったのですね……
これは、一大事ですわ
手紙の文面から目を離すことなくエリーナさんと言葉を交わしますが、私の手はいつの間にやら小さく震え、次いで冷や汗が頬を伝います。
その様子に気付いたエリーナさんが、お声をかけてくださいました。
お会いするのは、お久しぶりなのですよね?
どうにも嬉しそうには見えないのですが……
険しい顔のままゆっくりとエリーナさんに顔を向け、覚悟と共に答えます。
ボスコヴィッツ様は、貴族の所作にたいそう厳しく、悪魔など比ではない程恐ろしいおばさまなのです
それは……物凄く嫌な予感がして参りました……
え、エリーナさん。すぐにこちらへ。
お伝えしたいことがございます
そういってエリーナさんの手を引き、急いで城の中へ駆け出しました。
◇
エントランス入って左側すぐにある応接室で、エリーナさんと私は作戦会議を始めました。
他の侍女やコック、本日城にて任に当たっている近衛兵にもボスコヴィッツ様がお越しになる旨を伝達し、城の者全員で臨戦態勢を整えます。
面識のある侍女たちやコック、先任の近衛兵は特に問題はないのですが、現在最大の問題となるのは、確実にエリーナさんの侍女スキルです。
こうなっては仕方がございません……
これをすぐに覚えてくださいませ
私はエリーナさんに一枚のメモを渡しました。
なんですか?これは
ボスコヴィッツ様の趣味趣向、癖や合図を書き記したメモでございます。
これをボスコヴィッツ様がおいでになるまでに暗記してください
……それは、可能ですが……。
そもそも、無理に私をお傍に付けなくともよいのではないですか?
エリーナさんが複雑な表情で問いかけます。
確かに、ボスコヴィッツ様と面識のある先任の侍女たちの方が、何のトラブルもなく平和にこのピンチを乗り越える事が出来るでしょう。
ですが……。
私は静かに首を横に振り、目を見つめて話しました。
貴女でなければならないのです。
そもそも、わたくしが貴女を専属侍女に任じたのに、わたくしの私情で都合よく侍女を交換するなんて、貴女にも、ボスコヴィッツ様にも大変失礼なことでございましょう?
しかし、これは例外というのものでは……
心配も問題もございません。
エリーナさんがこれまで、どれだけ侍女訓練に励んできたか、わたくしが良く存じ上げてございます
ですが……
自分に自信をお持ちになって。
エリーナさんならきっと、この試練を乗り越えられると信じていますから
言い終わりにっこりと微笑むと、エリーナさんは意を決したように目に力を込めました。
かしこまりました。
頂いたメモを暗記します。
今しばらく、私に時間をくださいませ
◇
そうして昼が過ぎ午後になり、運命の時がやって参りました。
玄関のドアノッカーの硬い音が3回響き、応接室に待機していた私たち二人は、急いでボスコヴィッツ様をお迎えに上がりました。
いらっしゃいませ。ボスコヴィッツ様。
遠路遥々、ようこそおいで下さいました
お久しゅうございます殿下。
2年ぶりでございましょうか
ええ。
またお会いできまして幸甚に存じます
齢60になるボスコヴィッツ様は、いつしか私より背が低くなり、背中も少々曲がっておいででした。
お顔には皴が増えておられましたが、美しいシルバーの御髪は今も健在でございます。
髪を後ろで一つに束ね頭の上にまとめ上げ、お洒落な帽子を被っておいでです。
小さなトランクを右手に持ったままでしたので、私はエリーナさんに目で合図を送りました。
ありがとう。……おや?
ボスコヴィッツ様からトランクを引き受けたエリーナさんは、何も言わず静かに私の後ろへ下がります。
殿下。新たな侍女をお迎えなさったのでございますか?
左様でございます。
彼女はエリーナ。
わたくしの専属侍女でございます
ほうほう……ふふふ。
それはまた、教育しがいがありそうな……
ふふふふふ……
ボスコヴィッツ様の怪しい微笑みが、私とエリーナさんの背筋を凍らせます。
そうです。この冷たい微笑みです。私が何よりも恐れているものは、冷水を全身に浴びせ掛けられたかのように心臓を凍えさせる、冷たい冷たいこの微笑みでした。
エリーナさんは静かに目を伏せ、この冷たい圧力に耐えているご様子。
そ、それではボスコヴィッツ様。
応接室までご案内いたします
ありがとうございます。殿下
こうして、突然来訪した恩師ボスコヴィッツ様による、私とエリーナさんへの『貴族試験』が幕を開けました。
◇
おほほほほ。
そのようなことがございましたか
うふふ。そうですの。
突然お父様がいなくなってしまったものですから、コック力作のお肉料理がほとんど手つかずで残ってしまわれて
では、なくなくお捨てになったのでございますか?
そのようなことを思いつく前に、コックの悲しそうなお顔が目の前に浮かんで参りましたから、城の皆を集め何とか全て賞味いたしました
おほ、おほほほほ。
それは大変でしたこと。
例えベッドに縛り付けても無駄でございましょう。
旦那様にはどんな統制や規律も通用いたしませんものね。
放浪癖にも磨きがかかっておいでとは。
おほほ
積もる話に花を咲かせ、ボスコヴィッツ様と談笑を始めて数時間が経ちました。
談話室には明るい声が響き渡り、紅茶とジンジャーブレッドの香りが部屋いっぱいに広がります。
積もる話に花を咲かせ、ボスコヴィッツ様と談笑を始めて数時間が経ちました。
談話室には明るい声が響き渡り、紅茶とジンジャーブレッドの香りが部屋いっぱいに広がります。
貴族試験の結果はと言いますと。
ご覧の通り、ボスコヴィッツ様はたいそう上機嫌でございます。
私の指示通り、エリーナさんはずっと部屋の隅にて待機しており、求められるまで一言も言葉を発することなく、如何なる質問にも一文で答えて下さいました。
また紅茶には砂糖をお使いにならないとお伝えしてあったためティースプーンを省き、カップの持ち手は左ではなく予め右へと整えてございまして、ボスコヴィッツ様は何のストレスもなく大好きな紅茶を嗜まれておりました。
そして癖であるカップについての質問を想定し、お出しになっているティーカップの職人情報や描かれているお花の知識を暗記させたのでございますが、この質問にも見事完璧にお答えにり、ボスコヴィッツ様はたいそう感心してございました。
他にもあらゆる事態を想定しメモに書き記していたのですが、想定外の事態にもエリーナさんは狼狽えることなく毅然と対処し、しっかりとした侍女の任を果たすことが出来たのでした。
……さて、そろそろお暇いたしましょう
左様でございますか。
本日はまことに楽しいティータイムでした。
是非またご一緒させて頂きたく存じます
ええ。是非そういたしましょう。
……エリーナ。こちらへ
突然エリーナさんを呼びつけたボスコヴィッツ様の声を聞きドキッとします。
恐らく、一番驚いたのはエリーナさん本人でございましょう。
一呼吸を置き、エリーナさんは静かにボスコヴィッツ様の近くに参りました。
お呼びでしょうか
貴女。
5年前に旦那様より慈悲を頂いた、あの時の娘ですね。
そして民に悪魔神官だと噂される異端審問官殿……
……私の事、気付いていらっしゃったのですか
ええ。ですが……
ボスコヴィッツ様は硬くしていたお顔を少し緩め、言葉を紡ぎました。
貴女のこと、少し誤解をしておりました
誤解、といいますと?
ええ。
風の噂で貴女が殿下のお傍にお付きになったと伺いましたら、どんな様子かと思いましてね。
知らぬふりで、探りを入れてございましたの
左様でございますか
貴族の出ではない庶民の娘に、殿下の侍女など務まるはずがないでしょう。
どんな無礼を働くのか、お灸をすえて差し上げようと意気込んでここに参ったのですけど……
どうやらわたくしの常識が間違っていたようですわ
恐れ入ります
ボスコヴィッツ様は私に向き直り、温かな笑顔を向けてくださいました。
殿下。なんとも素晴らしい侍女をお迎えしましたね
お褒めに預かり光栄に存じます
そして再度エリーナさんに視線を戻すと、真っ直ぐな瞳で訴えました。
美しく聡明な侍女エリーナよ。
貴女こそ、殿下のお傍に相応しい。
これからもしっかりとその任を果たし、のちの国家元首であるシャッフル王女を、真にお支えになって下さいませ
こうして、たいそう満足したご様子で、ボスコヴィッツ様は帰路につかれました。
私は手を振り、エリーナさんはお辞儀で、門の外へ消えていくボスコヴィッツ様を見送っていたのですが、顔を上げたエリーナさんの表情は、何故か今にも泣き出しそうなほど、暗く、重く沈んでおられたのでございました。
ディアヒストリー17 終了