全て……思い出しました……
飛び散った花瓶の最後の欠片が音を消し再び静寂を生み出した時、シャッフル王女は静かに目を開け、濡れた足元を見つめながら呟いた。
忘れ去られていた記憶の数々が、一瞬のうちに蘇り繋がる。
毅然と椅子から立ち上がったシャッフル王女は、机に軽く腰掛け腕を組んでいる領主に対峙しはっきりとした口調で語りかけた。
お父様の真意は理解しかねます
……
何故、お母様を密葬なさったのです?
お母様は、国民や他国の皆々に最期を見届けられるべきお方です
あの状況下で王妃の死を内外に公表すれば、倭国を恐れ戻らぬ兵士達やその民衆の混乱は避けられない。
同時にその状況が倭国の耳に入りでもしたら、我が国の士気の低下を悟られる。
さらにはいずれ、倭国以外の敵勢国家をも誘うことにもなるだろう
……
除隊した兵達は王妃の死については知らん。
更に倭国の奇襲についても口を閉ざしているようだ。
……プライドあればこそ無理もない。
事実追い払ったが、圧倒的な力の差に我が軍は完敗していたのだからな
ですが、隠し通すなど無理な事。
エリーナさんも、侍女たちも、街の人たちも……
どうしてお母様の事について一言もお話にならなかったのでしょうか
貴下に気を遣っていたのだよ。ディア。
皆薄々勘付いておる。しかし傷心の貴下をこれ以上悲しみの底に沈めぬよう、王妃の話題はあえて出していなかったのだろう。
……おかげで、エリーナの魔術が今日まで保たれたという訳だ
……わたくしは、皆に欺かれていたということなのでしょうか……
ディア……
いえ……申し訳ございません……。
少し、一人にさせて下さいませ
シャッフル王女は表情を変えず、一人書斎から立ち去った。
残された領主とエリーナは遠のく足音を黙って聞き、気まずい雰囲気の中を無言で過ごす。
硝子が散らばり水で濡れてしまった床を見つめ、ついにエリーナが口を開いた。
無理もないでしょう。
やはり私は、魔術ではなく呪いを掛けてしまったようです
またマイナス思考か……
だって!
ちゃんとした魔術師なら、もっと前向きな効果をもたらした筈です。
私が中途半端な魔術を使ったせいで、シャッフル王女は……
言葉を慎め!
っ……
魔術師は誰でも簡単になれるものではない。
原理を理解できないものが魔術を真似したところでそもそも何も起こらない。
貴下はしっかり魔術を使えた。それが事実であり証明だ。
呪いだの中途半端だのと思うのなら、その先はしっかりと、貴下が今この現実で、責任をもってフォローをしてやることだ
……領主様……
言ったであろう。全てを思い出したその時に、ディアが現実を受け入れられる覚悟が出来ているか否か。
こればかりは、ディアの成長を信じるしかあるまいと
……はい
ならばディアを信じるのだ。
そして……エリーナ
領主は言葉を一瞬遮り、エリーナの肩に両手を置いた。
……最期まで共にあり、ディアの生涯を見届けよ
エリーナは内心驚き目を見開いた。
そうか……。ようやく分かった……。
領主様が私をここに置いていた理由……それは……
目の前の領主をしっかりと見つめる。
出会った頃から変わらない。恐ろしくも優しい、深い瞳……。
そのゆるぎない意志と強い理想……。
これまで気づかなかった自らの主の大きさに心からの感謝と敬意の念を込め、エリーナは力強く返答した。
……了解、致しました
◇
ステンドグラスを抜けた七色の陽光。
左右均等に並べられた長椅子のあちこちに落ちる光の欠片。
シャッフル王女は一人聖堂にて祈りを捧げていた。
ただひたすらに目を閉じて、指を組んで瞑想する。
王妃の事、倭国の事、そして自分の知らぬ間に受けていた、国民たちからの深い配慮。
感謝と、戸惑いと、未来について、様々な思いが絡み合う。
しばらくして、静寂の聖堂に背後から、ギィ……と扉の開く音が聞こえてきた。
カツカツと誰かが近づいてくる足音……。
聞き間違える筈もない。この聞きなれた足音は……。
エリーナさんですわ
祈ることを中断し、静かに目を開け振り返る。
ごきげんよう。エリーナさん
殿下……
いかがなさいまして?
そんな哀しそうなお顔、らしくありませんわよ
……てっきり、泣いていらっしゃるのかと……
ふふ……左様でございますね。
涙は、かつてのわたくしが全て流し尽くして下さいましたから……。
ご安心なさい
はい……
……
尚も暗く、悲しみに満ちた表情のまま俯くエリーナを前に、シャッフル王女は明るく声をかける。
それにしても驚きました。
エリーナさん、魔術師だったのですね
いえ……。
私はまだ魔術師などではございません
左様でございますか
はい……
……近頃、記憶の中にわたくしを蔑み睨むお母様の姿や、倭国の悍ましい鎧の影が現れては消え、現れては消えを繰り返しておりました
私のせいです……
それが、先程のエリーナさんの魔術のおかげで繋がり、わたくしは今すべてを受け入れることが出来ました。
感謝いたします
そんな……やめて下さい……
ですからエリーナさん、これからも一緒に……
申し訳……ありませんでした……
シャッフル王女の言葉を遮り、エリーナは苦しそうに懺悔し、同時に勢いよく頭を下げた。
突然のことに驚き、シャッフル王女は目を見開く。
え……?
何故エリーナさんが謝るのです
全て私のせいなのです……
何を仰るのです。
魔術を掛けろと命じたのはお父様なのでございましょう
はい
命に従うのが従者の務め。何ら気を沈めることはございません。
それに倭国が攻め入ったのも、お母様が亡くなってしまわれたのも、エリーナさんのせいなどでは……
私のせいなのです!!
未だ頭を下げたまま、エリーナは叫び否定した。
訳が分からず固まるシャッフル王女をよそに、エリーナは身体を起こし床を見つめる。
目を合わせず、決して表情を見せず、エリーナは静かに語りだした。
倭国を城へと導いてしまったのは、私なのです
どういう……ことでしょう……
あの会談が開かれるよりずっと前。
私はあの『キモノの女』と会っているのです
え……
……私の……せいなのです。
私が、この城へ攻め入るきっかけを作ってしまった……。
致命的な情報を、ああも易々と与えてしまった……。
私があの時、もっとあいつを疑ってさえいれば!
もっともっと、警戒してさえすれば!
それから!
……私が……こんなに……馬鹿でなければ……!
お待ちになってエリーナさん。
それは……
伏せていた顔が上がる。
ようやく見る事の出来た目の前のエリーナのその瞳からは、大粒の涙が次々と零れ落ちていた。
本当に……申し訳ありませんでした!!
初めて見るエリーナの表情に、シャッフル王女は言葉を詰まらせる。
私は……私は……!
何もかもを話してしまった。
この城に誰が住んでいるのか、兵は何人いるのか、そして普段は兵が常駐していないことまで!!
……何の疑いも持たず、見ず知らずの相手に全て!!
涙を流しながら、懺悔を訴えるエリーナ。
溢された涙と言葉を受け取ったシャッフル王女は、これまでのエリーナの行動原理を全て理解したのだった。
平和な国に突如として現れた異端審問官という役職。
シャッフル王女と領主への不自然なまでの敬意と、怪しきものを全て投獄する際限のない疑心。
引き籠ってばかりだったエリーナがいきなり活動的になり始めたのは、シャッフル王女に忘却の魔術を施してから更に1年ほどが経った頃からだった。
この間エリーナの心境に何らかの変化が生じたのだろう。
未だ涙がこぼれる頬に、静かに優しく手を添えた。
全ての行動の理由は罪悪感……
ようやく、貴女の事がわかりました……
ご安心なさい。エリーナさん。
お父様は全てお気付きでいらっしゃいました
え……?
最初から倭国の会談を不審に思われ、極秘で兵を忍ばせていたのです
ですが……っ!
結果、王妃様は死んでしまった……
ええ。それは……
王妃様が倒れられ、応接室が混乱に包まれていた最中、あのキモノの女が私の耳元に現れ囁いたのです
シャッフル王女の言葉を遮り、エリーナはあの日の様子を振り返った。
『感謝するぞぉ。命の恩人よ。ククク。ほれ、見るのじゃ。これが、そなたが招いた現実じゃ。そなたから得た情報は、ぜーんぶヨシノリ様に報告してのぉ。この国を大そう気に入った様子じゃった。今回はただの肩慣らし。また来る故楽しみにしておれ!』
明らかに原因は私だった。なのに私は事の発覚を恐れ、そのまま一人自分の部屋へと逃げ込んでしまった……。
今思えば、あの時の私は治癒魔術の扱い方を知っていたんだ。
例え使えなかったとしても、傷を塞ぐことはできなかったとしても、シャッフル王女に王妃様からの最期の言葉だけでも引き出せたかもしれないのに!
エリーナさん……
それに!
……もしかしたら、王妃様が亡くなったのは事故ではなくあのキモノの女が……
いけません。エリーナさん
……
もう。良いのです
でも……
今までずっと、その深い罪の意識を内に秘めたまま、わたくしと共にあったのですね……。
さぞ、お辛かった事でしょう……
シャッフル王女……
わたくしはもう大丈夫。
確かに、お母様からの最期のお言葉はとても悲しいものでした。
例えお母様の本意ではなかったとしても、あの恐ろしい眼差しは、決して忘れることはできないでしょう
……
ですが……
言いかけて、シャッフル王女は歩き出した。
こちらへ。エリーナさん
チラリと振り向き声をかけるシャッフル王女に続き、エリーナも力なく後を追った。
たどり着いた先は、城の正面左側の、緑の美しい芝生の庭。
その中央にシャッフル王女はそっと佇み、目を閉じながら呟いた。
覚えています。ここにはお母様の育てたユリの花が咲き誇っておりました。
ですが戦乱の中酷く踏み荒らされ、そして残った全てのユリの花も、お母様の棺の中へ手向けたのです
はい……
殿下が記憶を呼び起こさぬよう、あれ以来ユリの花を植えることはなくなりました
お母様は我が国の国花でもあるユリの花が大好きで、どの季節でも愛でられる様、咲き誇るユリに魔法を掛けて、大切に育てていらっしゃいました
はい。
牢獄塔の上から、いつもその様子を見ていました
おかげで、どんなに寒くても雪が降っても。いつでもこの城はユリの香りで満たされていたのです
はい。
一年中途切れることなく。城の中の至る所にもユリの花が飾られていたのを覚えています
私にとってユリの香りは、お母様の香りです
王妃様の、香り……
ええ……
独り言のようにシャッフル王女は呟き、そして静かに目を開け改めて、エリーナの方へと向き直った。
心地良いそよ風が二人の間をすり抜けていく。
緑の芝生はサラサラと音を立て、風の行方を差し示す。
しばらくするとシャッフル王女は、大きく手を広げ宣言した。
もう一度ここに、ユリの花を植えましょう。
あの頃と同じく、いえ、あの頃よりも凛々しく咲くように
その笑顔は美しく、そして今まで見てきた笑顔の中でも一番頼もしくエリーナの目に映っていた。
シャッフル王女は、確実に前に進んでいる。
全ての現実を受け入れている。
凛々しくもどこか柔らかい。不思議な空気を纏った王女。
過去を責めず自分を責めず、明るい未来を描くシャッフル王女の眩しさに、エリーナは再び涙を流した。
了解……致しました。
……貴女の大切なものは、私が必ず守ります
信じています。
これからも、ずっと……
今後ユリの花は、シャッフル王女の香りとなるだろう。
エリーナは涙をしっかりと拭い、未来に向かって歩き出した。
ディアヒストリー27 終了