エリーナさんに牢屋番をさせてから3日が経とうとしていた頃、牢獄塔頂上の見張り台に人の姿を見つけました。
酷く虚ろな表情。見張り台の縁に頬杖をつきぼーっとどこかを見つめているその姿で、すぐにエリーナさんだと気付きます。
不意にこみ上げる懐かしさ。私は牢獄塔のすぐ下へと近づき、堪らなくなり声を掛けました。
エリーナさーん。一緒に庭園をお散歩しませんこと?
返事はない。
けれどもエリーナさんはしばし私の様子を伺ったのち、無言で塔から降りてきて下さいました。
お呼びでしょうか
ええ。呼びました。こちらへいらっしゃい
私は庭園へ続く道へと歩みを進めます。
後ろを無言で付いてくるエリーナさんはやはり俯き加減。いつもの覇気や威厳がございません。
辺りが緑に包まれてきた頃、少しずつ話題を振ってみました。
ようやく薔薇の蕾が開き始めましたの
そうですか……
もう少し奥へ行けば、美しい薔薇たちがわたくしたちを迎えて下さることでしょう
はい……
やはりといったところ。すぐに会話が止まってしまいます。
いつもの事といえばいつもの事ですが、纏っている空気がまるで違います。
予想するに、きっと牢屋番の件で何か思い悩むことがおありなのでしょう。
このままではいけません
私はエリーナさんをここまで消沈させている原因であろう話題に、思い切って踏み込みました。
牢屋番の任はいかがご様子で?
囚人たちには、ちゃんと食事を届けていらっしゃいますか?
はい。
ですが、私から与えられたものなど食いたくないと、食事を拒む者が、一部
あらまあ、それはよろしくないですこと
はい……
それで?
エリーナさんはちゃんとお食事をとっていらして?
え?
ですから、ご自分のお食事です。
顔色が優れませんので、とても心配で
そ、それは……。
ご心配には及びません。ちゃんと、食べていますから
余計なお世話だとでも言いたいのでしょうか。
少々適当気味に、そして次第に口ごもりながら返答しました。
図星を誤魔化しきれない反応が更にその人の真面目さを映し出し、私は気づかれぬよう笑みを零します。
何か悩み事がおありのようで。
私で良ければ、お話になって
そんなっ…特に、大丈夫です
それは残念ね、わたくしには知られたくない秘密事でも?
いえ、別にそういう訳では……
振り向かずに歩き話し続け、一向に心を近づけようとしないエリーナさんの声を背中と空気で感じとります。
気付けば辺りは満開の薔薇庭園。
私はここで歩みを止め、エリーナさんの方へ振り返りました。
では、話してごらんあそばせ。
どこにも出口が見当たらないのは、貴女がその目を瞑っているからでしょう。
暗闇だと思っているその世界はきっと、貴女自身が作った牢。
その牢を開ける鍵を、もしかしたら、わたくしが持っているかもしれなくてよ?
驚き目を見開いているエリーナさんに、私は優しく微笑みかけます。
すると視線を私から地面へ移し、一つ溜息を溢して思案を始めました。
じっと待つこと数秒後。葛藤をはらんだ言葉の数々が、ゆっくりとその口から語られたのでした。
知りませんでした。
牢が、あのような状態になっていること……
あらまあ。
今まで一度も捕らえた囚人たちの様子を、ご自身でご覧になったことが無くていらして?
はい
それでご覧になってみて、いかがお感じでして?
無言の数秒。
即答の難しい問いかけに、エリーナさんは苦しそうに言葉を絞りだしました。
……私のしている事は、本当に正しいのでしょうか?それとも、間違っているのでしょうか?
……もし間違っているとしたら、一体どうするのが正しいのでしょうか?
私は、私にはもう、何が嘘で何が本当かわからなのです。どうすればいいのか全く分からないのです
そういって拳を握りながらギュッと目を瞑ります。
恐らく、囚人たちから言われた言葉の数々を思い出しているのでしょう。
また一人で暗闇の中に閉じこもってしまうエリーナさんの頬に、私はそっと手を置きます。
ご安心なさいエリーナさん。お悩みになるのも無理のないこと。
人の真の心の内を読み取ることは、そう簡単にできることではございません
エリーナさんは静かに目を開き、俯いたまま動きません。
何か言葉を探しているのでしょう。
その姿を見守りながら、私は言葉を続けます。
それに、人の心とは未知なるものですから。
どんなに有能な人であろうとも、全てを知るなど神の所業です
別に、全てを知ろうなどとは、考えていませんが……
エリーナさん、貴女はあの囚人たちの行動のみならず、心まで支配しようとしているのではございませんこと?
心まで支配……ですか
私はエリーナさんの頬から手を離し、今度は薔薇園の中でもひと際美しく咲く薔薇の一つに手を添え呟きました。
わたくしはこの薔薇を美しいと感じております。
ですが世の中にはきっと、薔薇を苦手とする方々もいらっしゃることでしょう
好き嫌いがあるのは当然です。
しかしシャッフル王女。
貴女がこの薔薇の美しさを説けば皆は必ず、薔薇という植物を愛するようになるでしょう
顔を上げはっきりと、そして断定的に未来を描くエリーナさんに、私は静かに首を横に振りました。
心とは、その人が過去に出会った人、これから出会う人によって、移ろい、揺れて、次第に固まっていくものなのです……。
そんな不確かなものを他者には絶対に支配できませんこと
では一体どうすればいいのでしょうか。
私は罪と、その罪を犯した者の心の真偽を見定めなければならないのです。
これではいつまで経っても、私は人を裁けない……
もどかしさに耐えられないといったご様子で少々声を荒げます。
必死な眼差しで訴えた後、再び視線を地に落としてしまいました。
見ようとして見えていない。いえ、見なければならないのにずっと目を逸らしている。
真実ではなく人そのものを。法の書ではなく現実を。
私はこれまでのエリーナさんの行動から感じ取った幾つかの違和感をまとめ、気づきのマテリアルを提供することといたしました。
支配ではなく、『理解をして差し上げる事』を心がけてみてはいかがかしら。
時間をかけて、じっくりと人と向き合い、話をする。
そうすればきっと、どうするべきなのか見えてくること叶いましょう
私を悪魔と揶揄する者達です。
そう簡単に、話をしてくれるとは思いませんが……
もちろん、エリーナさん自身も心を開かなくてはなりません。
法を盾にし、貴女の本心がいつも見えない状態では、誰も貴女という人を信じてはくれないでしょう
私の、本心?
少し驚いたように顔を上げると、エリーナさんは薔薇園の奥を見つめ考え込んでしまいました。
沈黙の中に響く鳥たちの声。そよ風に揺られる薔薇を横目にその姿を見つめます。
本心は真実に直結するとても大切な光の在り処。
そういえば私も、ずっと知りたいと思っておりました。
いい機会ですので、話題転換も兼ねて直接聞いてみることにいたしましょう。
ところでエリーナさん。
貴女はどうして、そこまで法にこだわるのかしら?
すると、遠くを見つめていたエリーナさんはしっかりとこちらに目を合わせ、自信満々に回答を口にしました。
それは、この地の法は、領主様とシャッフル王女が皆の平和を想い制定したものだからです。
私はこの地の法は素晴らしいものだと思います。
私がかつていた所の法とは、全然違う……。
ですから、お二人の想いを、皆に正しく説きたかったのです
まっすぐな瞳で曇りなく。
私は驚き目を見開きます。
極端なまでの善悪の判断は、私と領主への敬意の念からきていたことを初めて知り、嬉しい半面、多少の誤解が含まれているのだという事にも気づきました。
本心から見えた、エリーナさんの思考回路。
ようやく納得が出来たところで、改めて真実をお伝えします。
そこまで我が領を愛して下さりありがとう存じます。
貴女の想い、しかと受け取りました。ですが……
……?
ですが一つ、誤解しておいでですのでお伝えしますと、我が領の法は、お父様とわたくしとで決めたものではございません
え……!?
我が領の法は、この地に住まう皆と共に決めたものなのです。
代々伝わってきた掟を基に、この時代に合うように、皆の意見を聞き、理想を聞き、苦難を聞き、そうして自然と形になったのが現在の法なのです
そんなっ、そんな事、書のどこにも書かれてなかった。
皆で決めたなんて……。
書には確かに、領主様とシャッフル王女のサインが……
お父様はご覧の通り自由奔放な方でございますから、もともと書物にすることを望んではおられません。
書にすれば必ずそれを盾にする者が現れるからと
……
ですが大切な皆の言。
いくらお父様が望んでおられなくても、最低限の記録は残しておかねばなりません。
故に我が領の法は、『法の書』という形で『ただ存在しているだけ』なのです
それを聞くと、エリーナさんは気が抜けたように肩を落とし自らを嘲笑しました。
私は、最初から間違っていたということか……
左様です。
皆、どうすれば自分らしく生きていけるか心得ています。
法とはいわゆる、自由と平和への道標。そこに強制力など欠片もないのです
しばしの沈黙の後、エリーナさんは目を伏せながら、ゆっくりと口を開きました。
仰る…通りです。
自由を説こうと自由を奪い、皆の為といい自分の理想を押し付けたのは紛れもなくこの私だ。
そしてシャッフル王女の陰に隠れ、その責任すら背負うことなく正義を振るい続けてきた
過去の自分の姿を見ているのでしょうか、その目はここではないどこかを見つめています。
シャッフル王女が今まで私に仰っていた事、今ようやく理解できた気がします。
結局私は、何一つ自分自身で考え決断できていない、ただの臆病者だったのだ
エリーナさん……
弱い自分を守る為だけに振るった自己満足の正義では、誰も幸せになんて出来ないというのに……
こんなことにも気付けなかった私は馬鹿だ……。大馬鹿者だ
……
‥‥‥ああ、いつから私は、傲慢の悪魔に成り果ててしまったのか……
独り言のようにエリーナさんは呟き空を仰ぎます。
その表情は微かに晴れ晴れとしているようで、ですがどこか呆れてもいる様で……。
しかし先程までの沈んだお顔は、もうどこにもありませんでした。
私からの励ましの言葉はもう、必要ないようです。
内なる牢を開ける鍵、見つかりまして?
はい。ありがとうございますシャッフル王女。
今一度、囚人たちとじっくり話をしてみます
それがよろしいでしょう。
そうですね……牢の中では窮屈でしょうから、ここはひとつ、囚人の皆様を森の散策に連れて行ってはいかがかしら?
澄み切った空の下でお話になれば、自然と心もほぐれる事でしょう
私の提案を聞いたエリーナさんは困り顔でくすっと笑い、そうしますと言って背中を向けました。
正直なところ、いつも反発ばかりでしたから、素直に返事を返してくれるなんて思ってもみませんでした。
驚きと感動で自然と笑みがこぼれ落ち、庭園の迷路がエリーナさんの姿を隠すまで、私はいつまでも彼女の背中を目で追い続けました。
信じています。エリーナさん。
貴女なら必ず、新たな道標を見つけられると
ディアヒストリー7 終