ディア!
……お父様……
王妃の部屋にて倭国に関する書類を発見したシャッフル王女は、自身の記憶を懸命に探りながら、その書類を隅々まで読み漁っていた。
しかし全てに目を通しきらぬうちに、開け放たれた王妃部屋のドアを見た領主が駆けつけ、読み耽ることを制止するように名を呼んだ。
ドアの前に立ち無表情で娘を見つめる領主に、シャッフル王女は複雑な表情を向け言葉を切らす。
ここで何をしている
領主の重い声が届くより前に、シャッフル王女は立ち上がり詰め寄った。
お父様、これは一体どういう事でございましょう
……
わたくしは全く存じ上げませんこと。
何故でございましょうか?
……
お母様の事……
どうしてわたくしは忘れてしまっているのでしょう
……
お父様は何かご存知なのでしょう!?
無言を貫く父に対し語気を強めた。
冷え切った王妃の部屋に響く悲痛の訴えは、温もりを覚えることなく消え去っていく。
無言の時間を数秒過ごしたのち、領主が一瞬目を伏せてついに回答を口にする。
……仕方がない、真実を話そう。
運命の日が迫っている。むしろ丁度よい頃合いだ
娘の心境など構うことなく、自らに言い聞かせるよう言葉を吐いた。
シャッフル王女は強い眼差しで父を見つめたまま静止する。
知らない記憶。募る家族への不信感。
信頼していたすべてのものが崩れ去っていくような感覚に襲われ、初めて抱く得体のしれない恐怖をこらえるように、ギュッと拳を握りしめた。
しかし真実を欲する願いも虚しく、またしても領主は真実を閉ざす。
ただし……
時と場所を変えてからだ。
ディア、エリーナは今どこにいる
予想外の言葉に驚き、一瞬言葉を詰まらせた。
え?
……エリーナさんでしたら数日前より未開の森へ……
明日にはお戻りになると存じますが……
わかった。
では明日、エリーナが戻ってきてから話の続きをするとしよう
思わぬ先延ばしに呆気にとられ、更に混乱を極める脳内。
しかしすぐに力を込め、必死にその真意を問い詰める。
すぐにお答えいただけないのは、どういうことでございましょう?
エリーナさんとこの書面、一体何の関係がございましょう
焦らずとも明日になれば全てを明かそう。
貴下がこれ以上気を揉むことに非ず
言い終わると領主は自らの書斎へと身体を向け、靴音を響かせ去っていった。
一人残されたシャッフル王女は、読みかけの書類の山に目を向け立ちすくむ。
明日になれば……全てがわかる?
一体どういうことなのでしょう……
それになぜエリーナさんが……
何もかもが不透明な現実についに居場所を失った。
シャッフル王女は力なくテーブルに視線を落とし、自らが置いた鍵に手を伸ばす。
鍵の冷たさが指先から伝わる。それは放心状態のシャッフル王女にとって紛れもない現実で、曖昧な意識を今に留めてくれる唯一の物に感じられた。
この鍵が温もりを覚えてしまわぬうちに部屋から出よう。そう自分自身に言い聞かせてドアの方へと歩き出す。
かつて幾度となく出入りしていたはずの王妃部屋をぐるりと見まわしながら、金のドアノブに手を掛ける。
お母様……
ドアを閉める瞬間まで王妃の面影を探したが見つかず、途方もない寂しさに襲われる。
ふと、鍵を持つ手が鍵穴直前で止められた。
このまま鍵をかけてしまったら……
また自分は母の事を忘れてしまうのではないか?
直感的な不安が過り、右手を静かに下ろして佇む。
シャッフル王女は扉に背を向け、鍵を掛けずに自室に向かった。
◇
翌日。
日が僅かに傾き始めた頃、ようやくエリーナが帰ってきた。
侍女より書斎へ来るよう言付けを受けたエリーナは言われたとおりに足を向ける。が、書斎へと入室した瞬間いつもと違う空気に少し戸惑った。
中央に座する領主と、そのすぐ横に姿勢よく立つシャッフル王女。
その表情はまるでいつものそれではなく、暗く重い眼差しでドアを開けた件の人物を見つめている。
お呼びでしょうか?
エリーナ。ディアに真実を話そうと思う
……
突然本題を投げかけた領主の真意を、エリーナは読み取り押し黙る。
エリーナさん。
貴女も何か知っていたのですね。
倭国の事、そしてお母様の事……
悲しそうに目を伏せるシャッフル王女に、悔しそうに言葉を沈めた。
……はい
……さあ、お父様。
エリーナさんも揃いました。
そろそろ真実をお聞かせ下さいませ
シャッフル王女が決意を改め、領主の隣からその正面へと歩みを進め話を促す。
時と場が揃った今は紛れもなく、真実への扉が開かれる瞬間だった。
いいだろう。
ディア、知りたいことを口にするが良い
待ち望んだこの言葉。
肩の力を少し緩め、しかし真っ直ぐな瞳は変わらぬまま、真剣に問いを溢し始めた。
倭国と……。
倭国と我が国は、かつて友好同盟を結んだことがあるのでしょうか
答えは否だ
では、お母様の部屋にあったあの同盟書は一体……
3年程前、結ぼうとしたが破談に終わった。
書の内容は貴下も読んだのであろう?
……ええ
ならば気づいた筈だ、倭国の目的と我が国の目的は大きく食い違う。
明らかに不公平な条件下での条約案だった
シャッフル王女は昨日読んだ書の内容を思い返す。
確かにそこには受け入れ難い条件がいくつも列挙され、両国のサインも記されていなかった。不自然なことなど何もない。
父の返答に早々に納得し、次の質問を投げかける。
……では次にお母様の事を。
お母様はなぜお亡くなりになられたのですか?
どうしてわたくしは、倭国やお母様の記憶が欠落しているのでしょうか?
訴えるように、必死になって解を求める。
知りたいことがいくつもあって、上手く問いをまとめられず切迫した。
そんな娘の不安と焦りを悟った領主は、酷く簡潔に解を与えた。
貴下の為だ
……え?
貴下の未来を守る為、エリーナに忘却の魔術を施させたのだ
な、何ということでございましょう……
思いもよらぬ父の告白に、一歩後退りエリーナへと視線を送る。
これより貴下に施された忘却の魔術を解くこととする。さすれば真実が見えるであろう
少し大きめの声で領主は宣言し、エリーナの方へ視線を送る。
その視線を受け取るや否や、苛立ちを抑え込みながらエリーナが目の前の領主に反発する。
本当に……無茶苦茶言うのもいい加減にしてください……
なんの環境も整ってない、何の準備もない状態で、また私にそのような命を……っ
貴下にしかできないことだ
ですから!……私はまだ魔術師では……
否!……忘却の魔術より我が親愛なる娘を解放せよ
……っ……
領主の強い言葉に逆らうことが出来ず言い淀む。
言葉を抑え領主を睨みながらも大きく肩で溜息をつき、観念したように話を進めた。
了解……致しました。
それでは椅子を貸して下さい
領主は立ち上がり黙って自らの椅子を差し出しすと、机に軽く腰掛け腕を組み、傍観の姿勢に入り黙った。
エリーナはその椅子を部屋の中央へと移動させ、曇った顔のシャッフル王女に向かい侍女の口調で着席を促す。
殿下。こちらにお掛けになって下さい
シャッフル王女は恐る恐る椅子の前へと歩みより、美しい動作で腰掛ける。
その様子を確認したエリーナは、暖炉の上に飾ってあった硝子の花瓶を手に取り抱きしめ、椅子の後ろに静かに立った。
ゆっくり目を閉じて下さい。
そして何もかもを忘れて、けれども求める記憶を探しながら、私の声を聞いて下さい
シャッフル王女は言われるがまま、静かに目を閉じ記憶を手繰る。
お母様……そして倭国……3年前のわたくしの記憶……一体どこに……
静かになった室内を確認し、エリーナはゆっくりと術を唱えた。
哀しい。苦しい。許せぬ現実。
確かに見ていた、あの日の景色。
牢に捕らえた女神は逃げ出し、貴女に向かって牙を剥く。
牙を研ぐのは黒い騎士。
女神を墜とすは倭の悪魔。
聞こえる筈だ、その声が。
叫んだ筈だ、その意志を。
全ての悪夢は蘇る。
貴女の祈りは、決して届かない!
瞬間、エリーナは持っていた花瓶を思い切り床に叩きつけた。
硝子が砕け散る衝撃音をきっかけに、シャッフル王女の意識は無音の過去へと沈んでいった。
ディアヒストリー22 終了