元女家庭教師が帰った後、私はシャッフル王女の許可を得て自室に戻った。
しばらくして、どちらかの侍女が夕食の時間だと呼びに来たのだが、私はいらないと言って断った。
なんとなく綺麗になった部屋。なんとなく清潔になったベットの上で、私は膝を抱え顔を伏せる。
そうだ……。
そろそろ、懐中時計を巻かないと……
服の内側に忍ばせていた懐中時計を取り出して、付属の鍵でねじを巻く。
小さな音を立てて進む秒針の動きを目で追いながら、今日言われた言葉を何度も何度も思い返した。
殿下。
なんとも素晴らしい侍女をお迎えしましたね
美しく聡明な侍女エリーナよ。
貴女こそ、殿下のお傍に相応しい
何度も何度も響くあの老婆の声。
その言葉を思い返すたびに、私はギュッと眼を瞑る。
違うっ……!
私は素晴らしい侍女なんかではない。
私は聡明な侍女なんかではない。
私のどこが美しいというのだ。
私はただ、シャッフル王女の指示通りに動いただけで、特段なにもしていない。
全部嘘だっ……!
そう、全部嘘だ。全部、演技なのだ。
私はあの老婆を騙している。
あの老婆は、私の全てを誤解している
一人でずっと、誰かに向けて釈明する。
私は素晴らしい侍女なんかではない……!
私は聡明な侍女なんかではない……!
私のどこが美しいというのだ!
一人でずっと、ぐるぐると。
同じ台詞を吐露し続ける。
懐中時計を脇に置き、また膝を抱えて視界を塞いだ。
どうして……私は……
再び思考の渦に身を投げようとした矢先、不意に空腹が襲い思惟が途切れる。
丁度考える事にも疲れてきたので、気を紛らわす為に顔を上げた。
ふと見るとベットの枕元に、シャッフル王女から借りたマナーの書が開かれた状態で置かれていた。
私はなんとなくそれに手を伸ばし、適当なページを開き虚ろに眺める。
目上、目下、貴族、庶民……。
ノックの回数、言葉遣い、時間厳守、スケジュール、マナー……。
そんな単語があらゆるところに散りばめられ、見るだけで頭が痛くなった。
もう……嫌だ……
こんなに勉強しているのに、こんなに努力しているのに、どうしてうまく出来ないのだろうか……
ついつい。うっかり。無意識に……。
知識が行動に移る前に、身体に染み付いた習慣が先を越す。
頭では分かっている。やるべきことも知っている。だがどうしても一歩遅れてしまい。シャッフル王女に先を越される。
そして染み付いた習慣の他に、私の足を引っ張るもう一つの原因も見えてきた。
れは……。
疑心のせいだ……
自分は誰かを常に疑ってきた。それが癖になっているのか、行動する前にまず疑ってしまうのだ。自分の行動を、相手の真意を。これで本当にいいのだろうか。これで本当にあっているのだろうかと。
考えれば考えるほど不安になり、例え正解であったとしても相手の誉め言葉ですら疑ってしまう。
思い通りに出来ない苛立ち。分かっているのに出来ない悔しさ。その度にシャッフル王女に八つ当たりしてしまう、自分自身の不甲斐なさ。
そのすべての感情が混ざり合い、私は酷く自己嫌悪した。
もう……疲れた……
開いたままの本を力なく身体から退かし、私は再び顔を伏せた。
そもそも私には無理だったんだ。
最初から無理だと言ったじゃないか。
貴族になんてなれるわけがない。
貴族になったって意味がない。
私なんて、私なんて……。
いない方がいいに決まってる……
私に侍女は向いていない。これ以上は私がもたない。私が私でなくなる前に。シャッフル王女の顔を潰す前に。この場違いな貴族の世界から、今すぐにでも逃げ出したい……
結局私は一睡も出来ずに、冷たい朝を迎えてしまった。
◇
おはようございます。エリーナさん。
今日はしっかりと起きられましたね
時刻は5時57分。私は結局いつものように、シャッフル王女の部屋へと入室した。
しっかりと起きられましたねと言われても、そもそも寝ていないのだから寝坊するなんてあり得なかった。
初めて時間通りに扉を叩いたことがそんなに嬉しかったのか、ベットに腰掛けたまま満面の笑みを浮かべていた。
何故この人はいつもこう眩しいのだろうか
睡眠不足も相まってか、私は返事や相槌を打つことさえ忘れ、いきなり本題を口に出した。
シャッフル王女
私の事は殿下と
殿下。やはり私に侍女は務まりません。
もう本来の任に戻してください
この言葉を聞くと、シャッフル王女は怪訝な顔をし首を傾げ、少しの間をおいて私に問うた。
何故?昨日ボスコヴィッツ様に、お墨付きを頂いたばかりですのに
あれは違いますっ……!
私は殿下の言ったとおりにしただけで、私はただ、侍女のふりをしただけでっ……!
聡明でも、美しくも、素晴らしくだってありませんっ……!
ではこれからそうなればよいだけの事。
侍女をやめる事ではございませんわ
私は、殿下の侍女に相応しくなんてないんです……
誰がそんな見当違いなことを仰って?
それは……私自身が、そう思うからで……
シャッフル王女は一向に引き下がらない。
私は言い返す言葉を見失い、次第に声が小さくなっていた。
怪訝な顔から少し困ったような顔へとその表情を変化させ、柔らかな口調で言葉が向けられる。
お気付きではないのかしら?
昨日貴女は、しっかりと侍女を務められておりました
ですからそれは違いますと……!
いいえ。違うはずなどございません。
……エリーナさん。昨日ボスコヴィッツ様が、『今日は冷える』と仰った時、静かにショールを持ってきて下さいました。
覚えておいでですか?
それは……
ボスコヴィッツ様が私を睨んでいたからで……
私が会話の中で、『レディグレイティーがまことに美味でして』と話していた時、静かにレディグレイティーを新しいポットに入れ直してきて下さいました
それは……
シャッフル王女に、ダージリンティは飽きたと言われたような気がしたので……
ボスコヴィッツ様が、『ジンジャーブレッドは何故人の形をしているか』と、貴女の方を見てご質問されました。
貴女はそれに、見事お答えになっておられました
それは……偶然……。
街でジンジャーブレッド売りから聞いたことがあったからです
シャッフル王女はにこりと微笑み、美しい動作で立ち上がった。
全て、私のメモにはなかったこと。
あなたの判断でしたことですわ
……
私は押し黙ってしまう。
確かにそうだが、何かが違う……。
それに、全てを悪意に受け取らないで下さいませ。
睨まれたとお感じかもしれませんがそれは『目配せ』。
飽きたと聞こえたのかもしれませんがそれは『望み』。
偶然かとお思いですが、それは紛れもない貴女の『知識』です
……
シャッフル王女は笑顔のままで、私に近づき目の前で止まった。
本日は侍女の任はお休みしまして、少し気分転換といたしましょうか?
え……?
そのまま強引に自分の身支度を手伝わされ、私の要求はうやむやにされた。
祈りと朝食を手早く済ませた後行き先を告げぬまま馬を連れ、並んで歩いて城を出た。
◇
街を出てから1時間は経っただろうか。
煌びやかなバロック様式の建物は次第に減り、だんだんと農地が広がってきた。
リフルシャッフル侯領の東側半分。都市部と農地を合わせて『バロック域』と呼んでいるのだが、その名の通り、水車や風車、作業小屋まで、そのバロック調の様式を崩さなかった。
シャッフル王女は愛馬を従え、言葉少なに並んで歩く。
心地いい馬の足音が永遠と響き、温かな日差しと涼しい風が、幾度も私をすり抜けた。
凛と前を向いて歩くシャッフル王女に向かって、私は問いを投げかける。
殿下。一体どこに向かっているのですか?
ふふ。今日は侍女でなくてもよろしいのですよ
いえ……これで構いません。
それで、一体どこに向かっているのですか?
もうすぐ、着きましてよ
何度聞いても質問をはぐらかすシャッフル王女のせいで、この一時間ずっと気が休まらない。
答えを諦め視線を逸らすと、目の前に小さな林が見えてきた。
それほど深くない整備された林を抜けると、私の目の前に広大な平地が広がった。
ここは……
ふふ。ここはわたくしの、ジョストの練習場でございます
踏み固められ土がむき出しになった地面。
土地の中央には高さ1m程の木柵が横に50m分立てられており、その中間の距離の所には木の柱が直立する。更にその柱からまるで天秤のように腕木が伸び、片方には木製の盾が貼り付けられ、もう片方には砂袋が吊り下げられていた。
一体ここで何をするのか全く想像ができなかった私は、悩まず率直に聞いてみた。
あの、ジョストとは一体……
あらまあ、ご存じありませんでしたか
はい……
少し残念という顔で返答され、なんとなく悔しくて目を逸らす。
しかしシャッフル王女は気にすることなく、しっかりとした口調で説明を始めた。
馬術スキルと国の名誉をかけた、騎士と騎士との一騎打ち。
それがジョストです
騎士同士の一騎打ち……
ええ。2年に一度、我が国、もしくは他国にて馬上槍試合のトーナメントが開かれまして、皆そこで自らの馬術や騎士の技量を競い合います
そんな大会があったなんて、知りませんでした
無理もございませんわ。
エリーナさんは城に来てからずっと、いかなるものにも興味をお持ちではございませんでしたから
申し訳ございません……
言われてみれば確かにそうだった。
私がこの城に来たのは確か23歳の時。
当時の私は人間不信で、誰も何も信じる事が出来ずに身を潜めた。
家族でもなく、使用人でもなく、私は他人として距離を置いた。皆との食事にも同席せず、何の行事にも参加しない、ろくな仕事もせずに、深く関わることから逃げていた‥‥‥。
今思えば、そんな何もしないただの居候をよく留めてくれていたなと不審に思う。
シャッフル王女は愛馬を撫でながら、トーナメントを思い出し笑顔で語った。
何も謝る事ではございません。
種目としては、一騎打ちの他に団体戦、剣術もあるのですが、私は主に一騎打ちを得意としてトーナメントに参加しています。
また馬術のみの技量を競う団体馬術競技も合わせて開催されますので、貴重な騎士たちの交流の場ともなっているのですよ
馬上槍試合について簡単に説明してもらったのはいいが、イマイチどんな競技なのかピンとこない。
モヤモヤしたまま一日を過ごすのは嫌なので、そのジョストとやらを深堀りする。
ご説明感謝します。
あの、ジョストのルールについても知りたいのですが
もちろんよろしくてよ
私が食いついたのがよほど嬉しかったのか、満面の笑みで説明し始めた。
国によって多少の違いはございますが、我が国のジョストは相手の騎士を落馬させられるか否かで勝敗を決します
落馬!?それ、大丈夫なのですか……?
攻撃方法は、魔法ですか?
いいえ。
本物のランスを使い、相手騎士のプレートアーマー左肩目掛けて突き落馬させます
それ……下手をしたら死ぬのでは……
ご安心ください。
プレートアーマーの内側には、突きの衝撃と落馬の衝撃を和らげる為、『土の強化魔法』を掛けてございます。
そしてランスの方には、強い衝撃を受けましたら粉々に砕け散るよう、反対に『土の弱化魔法』を掛けているのです。
また念の為、ランスの先を鋭利にすることはルールで禁じられています
な、なるほど……
決闘のチャンスは3回です。
お互いに落馬を免れた場合はランスをあてた部位によってポイントが加算され、審判員がその勝敗を判定いたします
ちなみに、シャッフル王女の戦績は……
ふふ。去年のトーナメントのみならず、ジョストにおいて負けたことはございませんわ
誇らしげにウインクをするシャッフル王女は、今まで見てきたどんな王女よりも無邪気で何故か可愛らしく私に映った。
流石ですね
お褒めに預かり光栄です。
さあエリーナさん、プレートアーマーの装着に手を貸して頂けますか?
こうして、シャッフル王女の指示を受けながら、シルバーに輝くプレートアーマーの装着を手伝った。
入念に準備運動を行ったのち、馬にも豪華な馬着を着せ、馬場鞍を装着して固定する。
そして指示をされるがままに、少し離れたところにある用具小屋からランスを数十本運び出し、スタート地点のランス立てに立てかけた。
手伝いありがとう存じます。
後は一人で大丈夫。
離れた場所から見ていらして
その言葉を言い終わるや否や、馬の手綱を引き駆け出した。
◇
それからしばらく、私は適当な木の根元に腰掛けて、シャッフル王女のジョスト姿を眺めていた。
美しい金色の髪をそのヘルムの隙間からなびかせて、4m程にもなるランスを構え、巧みに馬を操り的を突き刺す。
軽快な馬の足音と、ランスが砕ける破壊音。
私は目を閉じ、想像する。
頭の中には、勇ましく相手騎士にランスを突き刺す王女の姿と、多くのギャラリーからの歓声を浴び、ヘルムを外し微笑む姿が映し出された。
勇猛かつ流麗なその姿に、心奪われないものなどいないだろう。
私は静かに目を開けて、再度その姿を目に焼き付ける。
本当に、なぜこの人はこんなにも美しいのだろうか
何の感情もなく、ぼーっと眺める。
眩しすぎて、私がどんどん惨めに思える
無感情のままに呟いた。
その瞬間、最後のランスが砕け散った。
馬の歩調を整えながら、騎乗したままのシャッフル王女がゆっくりとこちらへ近づいて来る。
その姿を確認し、私は立ち上がり数歩進んだ。
殿下は凄いです。
優美で、勇敢で、騎馬も完璧で……
聞こえているのかいないのか、馬から降りてヘルムを外し、爽やかな笑顔で私に言った。
エリーナさんもやってみませんこと?
え!?ジョストをですか!?
ええ。お教えいたします
け、結構です!
流石に遠慮しておきます
あら。それは残念。
では馬に乗ってみませんこと?
え!?
さあ、乗って御覧なさい
ぜ、絶対に無理です。
騎馬など出来ません!
……何故、そう思われるのでしょうか?
それは……
私には、騎馬の経験なんてないですし……
私が一歩、また一歩と引き下がる度、楽しそうだったシャッフル王女の声色は次第にトーンを下げていった。
そして笑顔こそ崩さないものの、哀しそうな声で呟いた。
全く。
エリーナさんはいつも否定ばかりでございますね
そう仰られましても……
私に、馬に跨る資格など……
この言葉に、シャッフル王女の顔が一気に曇った。
よろしいですことエリーナさん。
謙遜も、度が過ぎますと無礼にあたるのですからね
……
追い詰められた私の取って付けたような言い訳を聞き、ついに口調強めに嗜められた。
いつもとは違う厳しい顔に、私はただただ沈黙する。
わたくしが、貴女なら出来ると見込んだからこそ、こうやってお誘いしているのです。
それとも、わたくしの目が誤りであると仰いたいのかしら
いえ、別にそういうわけでは……
では乗って御覧なさい。
大丈夫。貴女なら出来ます。
失敗を恐れず、前に進むのです
戸惑う私に構うことなく、シャッフル王女は手を引いた。
導かれるままに手綱を握り、緊張しながら指示に従う。
左手で手綱と鞍を握って……そうです。
次に左足を鐙に掛けて……そしたら右足で地面を強く蹴って下さい。この時、シャルロットのお尻に足を当てないように気を付けて下さいね。
右足が上がったと同時に右手も鞍を握ってください。
……ではいきます。3、2、1……
私は勢いよく地面を蹴った。そして右手で鞍を掴み身体を強く引き寄せる。
何とか姿勢を起こしたその時、目の前の景色に驚愕した。
っ!……凄い……!
目線は優に地面から2mくらいだろうか。
風の流れも、光の注ぎ方も、地面にいるときとは違って感じる。
手綱と鞍越しに馬の息遣いが感じられ、初の騎馬に心から感動する。
凄いです。シャッフル王女。
こんな景色、見たことがありません
ええ。騎馬をするものにしか見えない景色でございます
空が近い、風が近い、光が近い、命が近い。
遠くに見える林の奥に、小さな鳥や動物が見える。
新しい景色にすっかり油断していると、馬がいきなり動き出した。
うわぁ!
とっさに体制を整えバランスを取る。
シャッフル王女が優しく馬を主導して、私に向かって話しかけた。
このままお散歩しましょうか
え!?大丈夫でしょうか?
ふふ。大丈夫です
想像以上の上下運動に驚きつつも、シャッフル王女が適宜アドバイスをくれるので何とか騎馬のコツが掴めてきた。
先程までの険しい顔はもうどこにもなく、私は安堵し騎馬に集中する。
筋がよろしいですこと。
初めての騎馬はいかがかしら
はい。とても、楽しいです……
私の素直な感想を聞き満足そうに微笑んだ後、こちらを向いて語りかけた。
よく覚えておいてくださいませ。
その楽しさは、騎馬に乗るという不安と恐怖を克服したからこそ、手に入れられた感情なのでございます
……はい
シャッフル王女は馬を引きながら、進行方向をまっすぐ見つめ直し言葉を続けた。
人は誰しも、未経験から始まります。
必ず失敗はありますし、不安と恐怖はいつでも傍に纏わりつきます。
でも……
向かい風に吹かれて、シャッフル王女の金髪がサラサラと流れる。
失敗を恐れず挑戦し、不安に打ち勝ち継続し、挫けることなく前に進めた勇ある者には、新しい世界が『生きがい』を連れてやってくるのです
生きがい……
貴女には、これから楽しいと思えることを沢山見つけて欲しいのです。
ですからしっかり、前をご覧になって。
毅然と前進する貴女の姿は、どこの誰より美しいのですから
使い込まれたプレートアーマーが、太陽の光を反射する。
凛として歩く目の前の女騎士は、目が離せない程美しかった。
そうか……分かった……。
この人が何故こんなにも人々を惹きつけ、こんなにも美しく見えるのか……
そして何故いつも眩しくて、何故いつも笑顔なのか……。
それは何事にも恐れずに、光に向かって進んでいるからだ
シャッフル王女は、後ろ向きなことは絶対に言わない。
それどころか、いつでも誰かの背中を押している。
何故こんなに強くあれるのだろう。何故こんなに優しくあれるのだろう。
馬の上からシャッフル王女を見下ろしながら、私はこの人の事をもっと知りたいと思った。
◇
城に戻ったころには、時刻はもう15時をまわっていた。
馬の世話を手伝い終わり部屋へ戻ろうかと考えていると、シャッフル王女から思わぬ誘いを受けてしまった。
エリーナさん。
この後はクリームティをご一緒しませんこと?
え……
正直悩んだ。
だってこれまで、シャッフル王女のお茶の用意をすることはあっても、一緒にお茶することなんて一度もなかったからだ。
城に戻ってすぐ、侍女にスコーンを焼いて下さるよう頼んだのです。
一緒に頂きましょう
既に用意されている上に満面の笑みで誘われてしまっては、例えどんな理由があっても断れない。
私の返事を待つ前に、またしてもシャッフル王女は私の手を引き、自室へと引っ張っていったのだった。
◇
シャッフル王女の部屋には既にティーセット一式が運ばれており、いつでもお茶ができるよう整えられていた。
さあ、お座りになって
いえ、シャッフル王女が……
ではなかった。殿下がお先に……
本日は侍女の任はお休みで良いと申したではありませんか。
馬に乗った時のように、お好きにお呼びになってくださいませ
そういえば、いつの間に……
殿下と呼ぶのを忘れていた。
戸惑う私を優しく導くシャッフル王女に、ついに観念して椅子に座る。
テーブルに置かれていたベルをチリンと鳴らすと、しばらくして侍女がポットとスコーンを持ってきた。
カップに注がれたのは、王女の好きなレディグレイティー。
正直紅茶はあまり好きではないのだが、飲めない訳ではないので問題ない。
さあ、召し上がれ
シャッフル王女がとても楽しそうに促した。
では、お言葉に甘えて……頂きます
何度も読み覚えたティーマナー。
本のページを思い返しながら、恐る恐る紅茶を一口、香りを楽しむよう口に含んだ。
……美味しいです
う……少し苦い……
すると心を読まれたかのように、私の取りやすい位置へとシュガーポットがコトリとおかれた。
不意の出来事に一瞬言葉を失っていると、シャッフル王女がにっこり笑った。
甘いの、お好きでしょう?
はい。……よく、ご存知で
何故だとお思いかしら?
無邪気な様子で私に尋ねる。
何故?何故だ……?
意外に難しい質問に本気で悩む。
シャッフル王女に私の趣味趣向を伝えた記憶はありませんし、誰かに話したこともない……
となると、魔術で私の記憶を読み取った……?
ふふふ。何を仰るかと思えば。
そのようなことはいたしておりません。
これだけ長い時間一緒に過ごしてきたんですもの、好みくらいわかります
そう‥‥‥ですよね
あ、そうでした
そういってシャッフル王女は突然立ち上がり、クローゼットの中から一枚のひざ掛けを取り出した。
どうするのかと見ていると、そのまま私の方へと歩みを進め、いつもの笑顔で差し出したのだ。
こちら、お使いになって
え?
エリーナさんは、他の方より寒さに不得手だったと記憶しています。
これから冷えてきますから、是非お使いになってください
……何故、それを
確かに私は寒いのが苦手だ。
夕方から夜にかけては、毛布が恋しくて仕方がない。
だが本当に、何故考えを読まれてしまうのか理解できなかった。
このことだって、誰かに話した記憶はないし、自分から毛布を要求したことなど一度もない。
先程も申しましたように、これだけ長い時間一緒に過ごしてきたんですもの。日々の様子から分かります
もう本当に完敗だ。この人には絶対に敵わない
確かに、そうですね……。
よく話すようになったのは最近ですが、この城に来てそろそろ5年になる筈だ。
それなのに私はシャッフル王女の事、何も分かっていませんね
そういって静かにひざ掛けを受け取り、冷えてきていた足元に覆い被せる。
ありがとうございます。
シャッフル王女には敵いません。本当に。何もかも
そう言って困ったように笑ってみせると、シャッフル王女は満足したように席に戻った。
だが……。
本当の理由はもう一つございますの
思いがけない言葉に私は固まる。
答えをすぐに口にしないシャッフル王女に我慢できず、恐る恐る問いかけた。
もう一つの、理由とは……?
紅茶を一口召し上がったシャッフル王女は、香りを楽しむかのように目を閉じている。
気になる言葉の返答を今か今かと待っているとついに、伏せたまつ毛がゆっくり持ち上げられ、そして私と目が合った瞬間、少し照れた様子でこう言った。
貴女に喜んで欲しいから……かしら
……っ!
それだけの、たったそれだけの理由で……
なんてお人好し……本当に、理解不能だ
呆れにも似た感情が胸の中に湧きつつも、何故だか凄く、身体が暖かくなった。
エリーナさんが最近、たいそう悩まれていたことは存じ上げておりました。
やるべきことは分かっているのに、なかなか行動に移せないのでございましょう?
……はい
どんなに誰かが褒め称えても、自分自身が許せないのでございましょう?
……はい
侍女をしていて悩んだ時。自分の決断に自信が持てない時。そんな時は雑念を捨て、まずどうしたら相手に喜んでもらえるかを考えると佳きこととなりましょう
どうしたら喜んでもらえるか……
左様でございます。大切なのは気持ちなのです。
仕事を作業としてこなしている限り、『先読みの力』は身につきません。
私に限らず全ての者に、『喜んで貰いたい』という気持ちで接すれば、自然と身体が動くものでございます
そう、でしょうか……
もし判断を間違えて、相手が例え喜んでくれなかったとしても心配無用です。
善意の気持ちを向けられて、嫌な気持ちになる人なんていないのですから
一理……ありますね……
見当違いを防ぐためには、コミュニケーションが大事となります。
相手の事をよく知る事。知りたいと思う事。会話をしながら少しずつ、無理なく歩み寄ってご覧なさい。
それが出来れば世界がもっと、楽しく輝いて見えますから
優しく微笑みかけた後、シャッフル王女はスコーンに手を伸ばし食事を始めた。
その行動に連れるように、私もスコーンを取り半分に割る。
どうしたら喜んでもらえるか……
シャッフル王女のこの言葉には、何故か不思議な説得力があった。
この気持ちを裏付ける為、これまでの記憶を手繰り寄せる。
私がこの城に拾われてしばらくは、ほぼ放心状態で日々を過ごしていた。
唯一見つけた仕事と居場所は、空っぽの牢獄塔最上階での、平和な城の見張り番だった。
そんな私の様子を見かねた当時16歳のシャッフル王女は、事あるごとに私にちょっかいを出してきた。
『紅茶はいかが?』
『苦い……』
『チョコレート。お飲みになりますか?』
『貰う……』
『星が綺麗です』
『寒い……』
当時の私は、完全に人との関わりを遮断したくて、ずっと心を閉ざしてきた。
シャッフル王女が近づいて来るたび、正直うざったく感じていた。
何故近づいてくるのかわからなかった。
何故食べ物を差し入れてくれるのか分からなかった。
私をペット扱いして、餌でも与えてるつもりなのだろうか。
そんな風に考えて、いつも冷たく突き放していた。
でも……。
あの時の疑問が今ようやく解けた。
シャッフル王女は、私に……。
喜んで欲しかったんだ……
この瞬間。これまで領民の人々にされたあらゆる『親切』に気付きだした。
売れ残りを差し入れてくれたり、城まで送ってくれようとしたり、傷の手当をしてくれたり……。
いや……。これらすべてを私の為だなんて考えるのは、正直自意識過剰でおこがましいのかもしれないが、少なくとも、そこに悪意はなかったのではないかと思い始めてきた。
例えば誰かが偶然に、私の喜びなど全く考えずに何かをしてくれたのだとしても、私の方から素直に喜んで笑っていたのなら、逆にその者は喜んでくれたのではないのだろうか。
ふとミラーとコームを買った、マリアの店の事が浮かんだ。
そうだマリアは……
門出祝いだと言って商品の代金を受け取らなかったのに、私はまだ一言も、まともにお礼を言っていないではないか
全然深く考えていなかった。
マリアだって、別に礼がないことについて、咎めたり、気にしてるそぶりは一切なかった。
だから別に、私を喜ばせようとしてタダにしたわけではないのだろう。だが……。
何か、お返しをした方が良いのではないだろうか……
スコーンにジャムとクロテッドクリームを付けることも忘れ、一口食べて紅茶を含んだ。
やはり同額の何かを持って行った方がいいのだろうか……。いや、マリアは商売人なのだから、同額以上のアイテムを今度正式に買いに行った方が売上が上がって喜んでくれるのではないのだろうか。いやいやそもそも、これは私の気持ちの問題で、例え喜んでくれなかったとしても何の問題も……
見る見るうちに思考の底なし沼に嵌まっていく。
真剣に考えている頭の中で、何故かこの思考を楽しんでいる自分に気が付いた。
そう、か……
その刹那、私は全てを理解した。
今まで私の足を引っ張っていたもの、今まで私に決定的に足りなかったもの、それは。
―――――――『思いやり』だ。
エリーナさん?急に無言になってしまわれましたけど、また何かお一人で考えていらっしゃるのかしら?
その言葉に現実に引き戻され、図星を突かれた事にはにかんだ。
実はたった今重大な悩みが出来てしまったのですが、聞いて頂けますか……?
ええ。もちろんです。
エリーナさんのお役に立てるのでしたら
シャッフル王女は眩しい笑顔で微笑んだ。
その笑顔につられ、私もついつい頬を緩めてしまう。
この後私は一人で考え込むのをやめ、マリアに何を返礼すべきか相談した。
紅茶やスコーンが冷めてしまったことすら気付かずに、時間を忘れて語り合った。
日が完全に沈むまで、侍女が扉を叩くまで。
笑顔を絶やさず、ずっと、ずっと……。
ディアヒストリー18 終了