時は1621年。
とある快晴の日和。心地よい風が妖精の羽音と共に流れ行く午前10時。
私が賓客へのご案内を終え、城に戻ろうとした時でした。
勘弁して下さいよエリーナさん!
いやダメだ。どんな理由があろうと、例外は認められない
年期の入った荷車の傍で、懇願するように慈悲を乞う30代くらいの小太り商人と、行く手を塞ぐように門の前から断固として動かないエリーナさんの姿があったのでした。
そんなぁ……いつも見てるでしょ?ほらこの顔!毎日城に新鮮な卵を届けに来ている、卵売りのカールですよぉ
もちろん知っている。しかしここを通るには通行証が必要だ。お前が真にここの領民であるならば、領民の証でもある通行証を持っているはずだ
ですから、さっきから何度もいいますが忘れてきたんですって~
ではここを通すわけにはいかないな。さっさと帰れ
はぁ?はるばる2時間かけてここまで来てるんですよぉ、今日くらい勘弁して下さいよぉぉぉぉ
既に見慣れた光景となった、エリーナさんの門番トラブル。
どうやら今日も始まってしまったようです。
私の配下となるこちらの女性は、エリーナ・ウォールナ。
5年程前に父が迎え入れた方なのですが、1年程前より異端審問官の任に就き、それ以降法に厳しい悪魔神官となり果てました。
小さな罪でさえ厳しく取り締まり、今日のようなトラブルも日常茶飯事。
警備の任としては責任感を強くお持ちのようで大変結構なことですが、融通が利かな過ぎる点で、多くの不満と反感を買ってしまっています。
ごきげんようカール。今日も新鮮な卵をありがとう
あ!王女様おはようございます!
いや~いいところにおいで下さった!
ほら、今日はいつもより少し多めにご発注頂いていたでしょう。それで準備に気を取られて、うっかり通行証を忘れてきてしまったんです。
そしたら、エリーナさんが断固として中に入れてくれなくて‥‥‥。
今日だけ!
今日だけ勘弁してもらえませんかね?
このとーーりですっ!
明日は絶対持ってきますんで
カールは頭の上で両手を合わせ、深々と頭を下げられました。
頭を下げたその向こうには、冷たい視線を送るエリーナさんが。
その視線はカールの背中から私へと移り、眉をひそめるお顔から早く追い返せという無言の圧力を感じ取りました。
ですが事情を聞けば致し方の無い事。
私は構わず、未だ顔を伏せるカールに向かい素直な気持ちをお伝えします。
左様ですね、カールの納める卵はいつも絶品。
帰られてしまっては明日の朝食が大変寂しいものとなってしまいますからね。
それはわたくしが困ります。
さあ、どうぞお通りなさい
え!?シャッフル王女!!
いやーありがとうございますっ!
御礼に、発注分より幾つか多く納めていきますんで!
まいど~!
そう言うと重そうな荷車をものともせず、エリーナさんを押し退けそそくさと城の裏口方向へとお進みになりました。
笑顔で会釈をするカールの背中を見送りながらふとエリーナさんの方へ視線をやると、木製の記録版を持ちながら、酷く不機嫌そうな顔で私を睨んでおいででした。
シャッフル王女!
なんてことをしてくれたんですか!
もしあの者がカールを装った悪しき輩だったらどうするのです!?
そんなこと……話をすれば、本物かどうかなんてすぐにわかりますこと
甘い、甘すぎます!
貴女が厳しすぎるのです。
人間だれしもミスはつきもの。
完璧な人間などおりません。
忘れものくらい、許して差し上げなさい。
寛容と施しの精神をお忘れなく
自分の任にしっかりと責任を持っているのであれば、通行証を忘れるなどあり得ない話。
あの者、これに味を占めまた同じ過ちを繰り返すでしょう
では貴女は、絶対に忘れ物やミスをしない完璧な人間であると言い切れるのかしら?
そ、それは……
そ、そもそも、通行証のないものは通してはならないと法を定めたのはシャッフル王女ではありませんか?
先ほどの物言いだと、これからは通行証を忘れてきた者でも全て通せというのですね?
全く。それでは通行証の意味がなくなるではありませんか……
ああ言えばこう言う…。
不満いっぱいの態度でありつつも、次第にぼそぼそと呟くように声を消すエリーナさんを根気強く説得します。
全く貴女って人は……。
文句と屁理屈だけは饒舌でいらっしゃること。
よろしいですかエリーナさん。
わたくしはそこまで極端なことは申しておりません。
善と悪を見極める前に、信頼というものが人の中にはあるのです。
法に甘えることなく、相手の心の真偽を見極める力を身に付けなさい
意味が分かりません。どうしろと言うのですか
心を近づけ、会話をしなさい。
コミュニケーションです。
その人の本質をしっかりと捉え、信頼関係を気づくのです。
そうすればおのずと、裁くべき本来の相手が見えてくることでしょう
………わかりました
大変不機嫌に返事を返すと、記録版に筆を走らせます。
エリーナさん、絶対分かっていませんね
まあよいでしょう。
ようやくエリーナさんが門の前から退いてくれたのですから、これ以上話が長くなる前に部屋に戻らねばなりません。
溜息を飲み込み城の方へ歩みを進めた、ちょうどその時……。
お待ちくださいシャッフル王女
……?何か?
通行証を。シャッフル王女と言えど特別扱いはできません。さあ、通行証を見せてください
あらら、先ほどの言葉、もうお忘れになられたのですね……
そう。これが私の一つ目の悩みの種。エリーナ・ウォールナの石頭です。
◇
やっとエリーナさんから解放されました。
先日取り寄せた馬術の本でも読みながら、この後は部屋でゆっくり過ごしましょう
そうして部屋での過ごし方に想いを馳せつつ玄関扉を開け城に入ると、丁度階段室から玄関ホールへ降りてきた、リフルシャッフル領主である父と対面しました。
見るからに遠出をしますと訴えかける大きなトランクと外行きの上着を目の当たりにし、悪い予感が脳裏をよぎります。
おお。ディアよ。丁度よかった。これから少し出掛けてくる
少し……と呼ぶには些かトランクが大き過ぎませんこと?
ん?なぁにたかだか1か月くらいのバカンスだよ
1ヶ月ですって??
そんな、急にバカンスだなんて。
それに、ご公務はどうなさるおつもりで?
ああ。代わりに片づけておいてくれ
陽気にさらっと重大なことを口にしつつ、我が父は私の横をすり抜け玄関の扉に手をかけます。
えっ!?
い、今預かっているお仕事は、かの伯爵からの大切な書類ではございませんか?
はっはっは。心配するでない。貴下でも十分、対応可能な内容だ
ですが、もしも不在時に何かあったら……
その際は、貴下の判断に委ねる
ぴしゃりと言われ、それ以上言葉を紡げずに立ち尽くすこと数秒後。
任せたぞと言葉を溢しながら、お父様はカツカツと外へと歩みを進めてしまいました。
無情にもパタリと閉まるドア。
私はフリーズしてしまった頭を何とか動かし、ドアに背を預け天を仰ぎました。
そう。
これが私の二つ目の悩みの種。
領主ディオール・ジュペ・シャフル1世の放浪癖です。
今日から一ヶ月。何事もなければ良いのですが
こうして部屋でゆっくり過ごすという夢は打ち砕かれ、領主の書斎へと足取り重く向かうのでした。
ディアヒストリー1 終